齋藤飛鳥さん出演の映画「マイホームヒーロー」を観てきた。
ドラマ版の続きで、映画の予告のなかで飛鳥さんが刑事になっており、ラストが読める(気がした)ので『今回は映画館で観なくていいか〜』と思っていたのだけれど、日程の都合が良くなり映画館に足を運んだ。
結論からいえば、めちゃくちゃ良かった。映画館で観れて良かった。『ありがとう飛鳥ちゃん』なのである。
「何がそんなに良かったのか?」観終わった後に感じたことや深く考察したことについて書いておこうと思う。
まずは、映画マイホームヒーローのあらすじについて。
目次
映画マイホームヒーローあらすじ
*なるべくネタばれしないように書きます
冒頭で述べたように「映画マイホームヒーロー」はドラマ版の続編。
ドラマ版のあらすじは、娘(飛鳥ちゃん)を守る一心で娘の彼氏を殺してしまった父(佐々木蔵之介)が、彼氏の所属していた犯罪者組織に追われながらも、色々な手段や心理的駆け引きを利用して逃げ延び「家族(娘と妻)を守るという物語」
以上のような流れは、映画の冒頭でもポイントをまとめて描かれている。なので、ドラマ版を観ていなくてもわかりやすい作りになっている。
映画マイホームヒーローのあらすじは、父が逃げ延びた頃から時は流れ、娘は刑事になっている。また、息子も産まれて4人家族に。
ドラマ版のラストシーンで埋めた死体が台風の影響で山崩れが発生し、父は犯罪者組織と警察の両方から追われることになる。
警察の中には、もちろん娘も含まれており、ずっと隠していた父の過去を知ったとき「さてどうなるか?」というのが映画版マイホームヒーローの見どころである。
映画「マイホームヒーロー」評価
映画「マイホームヒーロー」は、物語の違和感を感じさせないほど、各俳優の演技に引き込まれた。
冷静に考えると『そんなことある?』と思ってしまうのだけれど、映画を観ている時はどんどん物語に引き込まれてしまった。
齋藤飛鳥さんの演技を絶賛していた佐々木蔵之介氏であるが、彼の演技なくして映画マイホームヒーローは成り立たなかったであろう。
また、後述するがラストシーンでの、父(佐々木蔵之介)のセリフで号泣してしまった。
彼のラストシーンにおける演技を引き出したのが、(絶賛していた)齋藤飛鳥さんの演技であるなら、彼女にとって重要な作品となったであろう。
映画「マイホームヒーロー」の感想
映画「マイホームヒーロー」で感じたことは、「大切な人への愛」「正義と悪」「知らないうちに愛されてる」の3本です(サザエさん風)
大切な人への愛
マイホームヒーローという題名から、この作品は「家族愛」についての作品であると思われがちだれど、映画版のラストシーンで犯罪組織の大ボスである志野(津田健二郎)が『俺も大切な人を失ってるんだよ』と述べている。
ラストシーンのクライマックスでは、父(佐々木蔵之介)、娘(齋藤飛鳥)、大ボス(津田健二郎)によって、この映画を観ている人へ問いかけているように感じた。
わたし達には、多かれ少なかれ「自分にとって大切な人」が存在する。
大切な人(存在)は「家族、友人、知人」だけでなくても、例えば応援しているアイドルやアニメのキャラも含まれる。
大切な人の行動や言動には好意を持つことが多い。
一方で、大切とはいえない人の行動や言動には興味がない。興味がないだけならまだ良いのだけれど、自分の考えや方針を押し付けようとする…そこに、各人における「正義と悪」という感情がうまれる。
「正義と悪」のありどころ
「正義と悪」についても、映画「マイホームヒーロー」のクライマックスシーンで大ボス(津田健二郎)が述べている。
『おまえは正義で俺は悪か?』
日本が法治国家である以上「法を犯すのは悪である」ことを前提としたうえで、正義と悪は「見方が違えば逆転する」ことについて考察してみたい。
映画「マイホームヒーロー」のドラマ版では、娘の彼氏を殺してしまったことから物語が始まっていく。
彼氏は犯罪組織に所属して、犯罪行為を行なっているので完全に悪なのだけれど、ドラマ版では彼氏や彼氏の父が「なぜ悪に染まっていったのか」が描かれている。
一方で、娘(齋藤飛鳥)は父親想いの良い子として描かれているが、そんな彼女が、なぜ、どのようにして彼氏に近づいた(近づかれた)のか、好意をもったのか、などが描かれていない。
いわば、父(佐々木蔵之介)側からの偏った視点であるといえないだろうか。
正義の反対は「必ずしも悪ではない」他人の正義である
娘が彼氏から暴行を受け、彼女自身が身を守るためであれば正当防衛であったが、父が介入し殺してしまった。まあ、小さくて可愛い刑事になる前の飛鳥ちゃん(娘)が反撃出来るとも思えないし、物語の構成上仕方ないのだけれど。
とはいえ、『父が悪だ!』というつもりもない。
わたしが注目したいのは「偏った視点から述べられる正義」について。
映画マイホームヒーローでは残酷なシーンで「正義と悪」が描かれているが、わたしが本作を観て感じたのは「我々の日常に潜む無自覚で無責任な正義と悪」である。
SNSの普及による「正義至上主義」
文章型SNSの普及により、正義至上主義が蔓延しているように感じる。口舌の刃(文章)で過剰に叩く(誹謗中傷する)という行為。
最近では、「SNSでの誹謗中傷は犯罪行為」として認められたため、減少しているようであるが、いまだに続けている人もいるのではなかろうか。
正義の反対は必ずしも悪ではなく「他人の正義の大剣を無自覚、無責任に振り回すこと」ではないだろうか。
自分の正義(常識)と他人の正義は違う。信念や主義、大切な守りたい人や物事。各人の育ってきた環境、現在の生活背景も違う…何も知らないアカの他人が介入し「正義と悪」のように白黒で安易に裁けるのだろうか。
わたし自身、聖人君子のつもりもなく、色々な失敗をしてきたと思う。そこから、『次こそは』と変わろうとする気持ちが大切なのではないか。
映画「マイホームヒーロー」では、法的に裁かれるわけなのだけれど「日常に潜む正義と悪について」考えさせられる作品であった。
正義と悪のように「白黒つけるのが望ましくない」のであるのなら、どのような視点を身につけるべきなのだろうか。
身につけるべきは「寛容さ」
アートは「寛容さ」を育む
大切な人を想う気持ち、正義と悪についてなどを考えさせられた映画「マイホームヒーロー」であるが、このような作品に出会えるきっかけを与えてくれる齋藤飛鳥さんや乃木坂46メンバーには毎回感謝の念を抱く。
なぜなら、アート作品は「寛容さを育む」からだ。また、彼女たちの存在がなければ出不精のわたしが映画館まで出かけることはない。アイドルの存在は重要なのだ。
「アートと寛容さ」については本作と話がずれてしまうので、詳しくはこちらをご覧ください
知らないうちに愛されている「優しさに震えて泣く」
映画「マイホームヒーロー」を観て涙を流したのは、「知らないうちに愛されている」回想シーンである。
回想シーンを観た後、わたしの過ごしてきた人生を振り返り、両親や祖父母、友人、先輩などから「知らないうちに愛されていた(優しさにきづかなかった)」事柄を思い出した(少し自己嫌悪に陥るほどに…)
また、映画「マイホームヒーロー」で号泣してしまったのは後半のクライマックスシーンで、どのような状況になろうとも「娘に負い目を背負わせまい」とした父の姿である。
正直、映画館で泣くのを我慢するために奥歯を嚙みしめすぎて少し血の味がした(そんなに我慢しなくても…)。結局は号泣したのだけれど。
なるべくネタバレしないように書いているので、本作を観る機会があれば注目してほしい。
まとめ
今回は、映画「マイホームヒーロー」について考察してみた。
役柄の設定から物語の顛末はある程度予想できたが、役者の演技の素晴らしさ、制作側の構成の巧みさなどにより感動できると共に色々と考えさせられる作品であった。
齋藤飛鳥さんの次回作「推しの子」も楽しみである。
飛鳥さんの過去出演された「サイド・バイ・サイド」についてはこちらもご覧ください