2022年に乃木坂46を卒業した齋藤飛鳥
卒業後初めての映画出演ということで「サイドバイサイド~隣にいる人~」を映画館で観てきた。
伊藤ちひろ監督が述べているように、映画「サイドバイサイド」は、昨今の流行りである「伏線回収」や映画のエンタメ化に抗う余白の多いアート作品のように感じた。
「余白が多い」ということは、鑑賞者によって感じ方が違うということ。
「何が正解で不正解なのか?」という枠にはめることなく、鑑賞者の「寛容さ」を育む。
匿名SNSが標準装備となった現代社会で起こりがちな、勧善懲悪主義(正義か悪か、白か黒か)が蔓延する状況において「寛容さを育む」のは非常に重要なことだと思う。
また、「寛容さ」は、齋藤飛鳥が所属していた乃木坂46のアイデンティティでもあり、彼女が映画「サイドバイサイド」に出演した理由にも通ずるのではないだろうか。
色々な視点から、映画「サイドバイサイド」を解きほぐしてみよう。
目次
サイドバイサイドの意味
「サイドバイサイド」は、「並んで、一緒に」という意味がある。
映画「サイドバイサイド」から読み取れる、「並んで・一緒に」はどのようなものがあるだろうか?
- 友人・恋人・家族のような人間関係
- 自分と自分へ向けられた想念
- 自然と人の共生
- 食材と人の生命
- 動物と人の共生
- 映画製作スタッフと鑑賞者
- アニメ・絵本のような娯楽と子供
- 過去と現在の自分自身
- 大人と子供
- 特別な能力を持つ人と持たない人
- 母と子・新しい命
- 美しさと美しくなさ
- 白と黒
以上のように、私が思いつくだけでも多くの「並んで、一緒に」が描かれている。
一見すると相反するような事柄でも、それは「対象物があってこそ存在する」ので、並んで共生しているといえるだろう。
映画「サイドバイサイド」を観た感想として、私も含めて『よく分からない』という声が多いのは、多くの「並んで、一緒に」が描かれているからではないだろうか。
多くの「並んで、一緒に」は、「人間社会そのもの」であり、すべてを理解するのは難しくて当然だと思う。
わたしたち個人の取り巻く環境が変化した時、再び映画「サイドバイサイド」を観るとまた違った印象を感じるのではないだろうか。
ちなみに、伊藤ちひろ監督が「サイドバイサイド」という題名にした理由は、カタカナの「イ」が漢字の「人」っぽく見えることと「並んで、一緒に」という意味がリンクしているからと述べている。
映画「サイドバイサイド」登場人物
映画「サイドバイサイド」は、少ない登場人物で各々が重要な役割を担って物語が進むので紹介しておきたい。
未山(坂口健太郎)
不思議な力を持つ青年
不思議な力を他者のために使い、身体の不調に悩む人やトラウマを抱えた人を癒しながら日々暮らしている
莉子(齋藤飛鳥)
未山の元恋人
画家
草鹿(浅香航大)
未山の高校時代の後輩
ミュージシャン
詩織(市川実日子)
未山の恋人。美々の母
看護師
美々(磯村アメリ)
詩織の娘
子供ゆえの不思議な力がある?
映画「サイドバイサイド」に原作はあるの?
映画「サイドバイサイド」に原作はなく、伊藤ちひろ監督による書き下ろしである。
伊藤ちひろ監督は、自身の好きなオスカー・ワイルドの童話「幸福な王子」のような作品の発想があり、映画「サイドバイサイド」の中でも童話・寓話的な色合いが表現されている。
主人公である「未山」と元恋人「莉子」は、人間的な大きな感情の起伏が描かれてなく、終始「静かな存在」として表現されている。
「未山と莉子」はファンタジー的なストーリーの軸であり、一方で「未山と詩織」は現実社会としてのストーリーの軸、ファンタジーと現実を繋ぐ部分を詩織の娘である「美々」が担っているように感じた。
映画「サイドバイサイド」が面白いのは、ファンタジーと現実を明確な見境なく行き来する点。そして、美々が子供の純真さから物事の本質に迫る問いかけや発言・行動している点ではないだろうか。
美々は映画「サイドバイサイド」を読み解くキーパーソンといえるだろう。
映画「サイドバイサイド」あらすじ
映画「サイドバイサイド」のあらすじをご紹介した上で考察に進みたい。
目の前に存在しない「誰かの想い」を見ることができ、その不思議な力で悩みを抱える人々を癒す未山。
そんな未山は、看護師の詩織と娘の美々と共に田舎の街で穏やかに暮らしている。
いつからか、未山は「ある青年の想い」が見えるようになる。
それを機に、未山は自らの封印していた過去と向き合うことになるのだが…
映画「サイドバイサイド」考察
*ネタバレ注意
映画「サイドバイサイド」は余白が多い作品であるので、私の考察は1つの考えにすぎない。なので、あなたが映画から感じたことを大切にすべきで、わたしの考えは1つの視点と理解してほしい。
「本当の美しさ」とは?
映画「サイドバイサイド」は、自然の美しい景色や家具、演者の着る服の色彩などにもこだわり総じて美しく表現されている。
しかしながら、「物語の内容」は本当に美しいものなのだろうか?
私が疑問に感じた箇所を述べたい。
未山について
未山は、特別な力を持っているが定職に就いていない。「主夫」という見方も出来るかもしれないが、莉子と再会してから詩織の家に寄り付かなくなっている。
悪くいえば「ヒモ」ではないだろうか。
また、莉子をエスカレーターから突き落とした(かもしれない)理由として、父親が怒ると感情的になることを述べているが、エスカレーターから突き落とすのは危険すぎるし、その後に逃亡している。
また、誰かの想いが見える力とは関係なく、悩みごとのある人の身体に触りすぎ問題がある。彼は整体師なのだろうか?
とくに、新婚の魅惑的な奥さまとは、何か「大人の関係」がありそうな雰囲気を感じる。
莉子が未山の家に来て、詩織が訪ねてきたシーンでは、詩織が土蔵の窓を開けた時、『虫が入るといけないから閉めて』と言うのだが、この言葉、草鹿のマンションを訪れた時に同じことを言われている。
察するに、未山は詩織に対して「何かしらの邪な気持ち」があるように感じる。
そして、ラストでは莉子と共に未山は居なくなってしまうのである。オーマイガー
ラストシーンについては後で深く考察しよう
草鹿について
草鹿は未山に想念を送り続け、莉子を引き渡す役割を担っている。
莉子の登場シーンは衝撃的で、産気づいて?か理由は定かではないが体調が悪い様子である。そんな莉子を、音のみであるが浴室に運びシャワーで洗い流すようなシーンがある…極悪すぎる。
また、莉子が妊娠している子供の父親は草鹿の可能性が高い。
『あんたの過去を保管しといた』のようにカッコ良さげなセリフを言うのだが、憧れの先輩である未山の彼女を手に入れたものの、ミュージシャンとして売れてきて面倒になってきたのではないか?莉子を未山にあっさり引き渡す。
莉子について
不遇なように思える莉子であるが、彼女にも難がある。
- 気に入らないことがあると液体を倒す(黒のインク、白い牛乳)
- 白い食べ物しか食べない(偏食)
- 山の中でオシッコ(orウンコ)してしまう
また、『文化祭に来なければ私に出会わなかったのにね、ごめんね』『(未山の)お父さん優しい人だと思ってた、ごめんね』のように、何かとごめんねfingers crossedしてしまうのである。
*ごめんねfingers crossedは、乃木坂46遠藤さくらさんがセンターを務める楽曲で、映画「サイドバイサイド」には全く関係ありません
繊細で弱々しい莉子であるが、最終的に未山の絵を書き上げ詩織の家に置いて、未山と一緒に居なくなってしまうのである。オーマイガー、パート2
詩織について
詩織は映画「サイドバイサイド」の中で、最もまともな役柄として描かれているが気になるシーンもある。
未山と寝ているシーンで、足の裏を未山の顔に向けている…失礼極まりない。
しかし、この寝方は莉子が登場してからは無くなり、未山と頭を並べて寝ているので何かしらの心理変化を表現したかったのか?とも思うが定かではない。
以上のように考察してみると、映画「サイドバイサイド」は美しい映像で表現されているが、物語については『本当に美しいのか?』という疑問を抱くのではないか。
ここで美々の登場である。
『美しい』って何?
美々は、作中で『美しさ』について詩織に質問している。
美々の発言や行動・表情は、余白の多い作品である「サイドバイサイド」を理解する糸口になっているように感じた。
鑑賞者が疑問に思うことを代弁してくれる。これは、「草鹿が見えていた」ことも同じく、物語の進行に大きく関わっている。
鑑賞者が「分かったような、分からないような…」という感想を持つのは、美々の功績といえるだろう。
そんな、美々であるが、ラストシーンで詩織に対して残酷ともいえる言葉を放つ『さっきまで、未山君そこにいたのに〜』
映像美、景色の美しさ、演者の美しさに覆われた「サイドバイサイドの物語」を美しいといえるのだろうか…
この美しさの上澄を掬った視点は、監督が推奨している別の視点としての映画「サイドバイサイド」の楽しみ方である。
あなたにとって、「美しいこと」と「美しくないこと」を考えてみるのも面白いかもしれない。
ラストシーンについて
映画「サイドバイサイド」のラストシーンは、莉子が未山の絵を描き上げ、その絵の前で詩織が倒れており、美々が『未山君さっきまでそこに居たのに〜』という台詞で終わる。
未山が居なくなった理由は、「亡くなった」「莉子と元サヤ」の2つが考えられる。
亡くなったと考えられるのは、迷子牛2度目のシーンで『今日はそっちに行くの?』と牛に引っ張られ、その後、崖の上で牛のワンカットのみが映し出されるからである。
莉子と元サヤの理由は、美々の台詞から考えると「未山の想いが詩織以外に行ってしまった」と受け取れるからである。
両方ともありそうだが、作中では明確にされていない。
その答えが書かれた書籍で、真実を知りたい方はこちら
まとめ
今回は、映画「サイドバイサイド」について、色々と考察してみた。
しかしながら、監督自らが狙って余白を多くしており、何が正解で不正解なのか分からない箇所が多い。
余白が多い作品は、鑑賞者の「体調、現在の境遇、家族構成など」で感じ方が変わる。
正解を求めないというのも、1つの楽しみ方であるが、どうしても真実を知りたい方は、映画「サイドバイサイド」の10年後まで書かれた書籍を読んでみてはいかがだろうか。