「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」は、推してるがゆえにジャンルが抱える問題から目を逸らすのではなく、一方でアイドルそのものを悪しき文化として非難するでもなく、アイドルを好きでいることと問題点の批判的な検討との両立を目指す論考本。
アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉 [ 香月 孝史 ]
本書は、第1〜9章で構成されており、恋愛禁止の背景にある異性愛主義、年齢いじりや一定の年齢での卒業という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ、ガールズクラッシュ、性的消費など「アイドルを観る側の葛藤」について書かれている。
それらの各項目について、アイドルファンとして個人的な感想・反論や読むべきポイントを引用してご紹介したいと思う。
当然、私の意見や考えが「正しい」訳ではなく、実際に本を読んで「自分なりの意見」を考えてみることをオススメする。
目次
「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」全体の感想
色々な視点からアイドルやファンに関係する事柄について書かれており、タメになるし新しい知識や文化との出会いが楽しい。
とくに、「ガールズクラッシュ」「観客は演者のきらめき」の項目は知らないジャンルのことを知れて面白かった。
基本的にアイドルメンバー(演者)とファン(受け手)について書かれており、運営(製作者サイド)に対する論考が少ない点が残念である。
今回の主題は「受け手(ファン)の葛藤」なので仕方ないのだけれど、次作では製作者サイドであるアイドル運営が『何を発信すべきなのか?』『どんな人が運営側に必要なのか?』のような「アイドル運営の歴史・在り方」についての論考を期待したい。
アイドル文化の面白いのは、「運営・メンバー・ファン」が協力(共犯)関係であり、時と場合により組む相手が変わる「不安定さ」だと感じた。
この「不安定さ」は、三者の関係性のみならず「コミュニケーションを売り物にしている」ことから生じる「精神的不安定さ」も含む。しかしながら、「不安定さ」にはネガティブな事柄だけではなく、サプライズ的なポジティブな事柄もあるのがアイドルビジネスの魅力の1つではないだろうか。
最終章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」に、すべてが集約されているように感じた。
総括的には、当サイトが目標とする「メンバー・ファン・運営が『三方良し』になること」が理想であるが、そのためには受け手(ファン)だけではなく「三者共に意識を変える必要があるのではないだろうか」という考えに至った。
各章で細かく考えてみよう。
序章「きっかけとしてのフェニミズム」
「フェニミズム」とは、現在の男性優位的な社会構造のなかで、女性が女性であることによって差別・抑圧されている状況を変えるために、性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさの是正を求める運動や思想のことである。
フェニミズムの歴史について書かれており、ポイントは「イエ制度に基づく家父長制(1家の長である男性が家族に対して絶対的な支配権をもつ家族制度)」「女らしさ」も主体的に選択しているのであれば「女性の主体性にもなりうる」こと。
ただし、女性の主体性が「商業化」されているという点には危うさもある。
アイドル産業のなかに、フェニミズムの観点から考えると看過できない慣例や因習が存在しているのもまた事実である。
それは例えば、エイジズムに基づく「卒業」制度や、異性愛主義を前提とした「恋愛禁止」の風潮などである。
(本書から引用)
アイドルグループ最年長者に対する「エイジズム」
「エイジズム」とは、年齢に基づいた偏見・差別や固定観念。
アイドルグループメンバーや共演者・テロップなどによる年齢が高いメンバーを「いじる」行為が見られ、エイジズムを再生産する行為になりうる。
メンバーや共演者などの「いじり」は、ファンや世間に対して影響力が強いので発言について考える必要があるだろう。
ある番組で年齢が高いメンバーに対して「BBA」のテロップが多用されており、温厚・寛容なタイプである私でも不愉快に感じた経験がある。
もちろん、メンバー同士の親密度、MCとの信頼関係、いじられた当事者の利益があるので一概に否定できないが、制作側の発信によりエイジズムを是正・固定化させている側面は存在すると思う。
アイドル「恋愛禁止」の背後にある異性愛主義?
本書のなかで、「異性愛主義」が多用されているが、この点に関しては疑問である。
アイドルのファンというと、アイドルに対して恋愛的・性愛的な感情をもっているのだろうという固定観念が根強くあり、さらにその(ファンの)恋愛対象は「異性」だろうという異性愛主義も根強く存在するため、同性のファンは二重の意味で特異な目を向けられやすくなってしまう。
本書より引用
乃木坂46メンバーは、女性ファッション誌にモデルとして多く登場しているように「同性ファンを増やす」ことが計画的になされているように感じる。
また、他のグループでも「同性ファンの支持数がメンバー人気のステータス」に感じられ、同性ファンを歓迎する風潮があるように思う。
以前は「特異な目を向けられた」時代があったのかもしれないが、現代ではそのような偏見は少ないだろう。
異性愛主義を前提とした「恋愛禁止」の風潮を説明するために、ファンの例を提示したのであろうが少し無理があるように感じた。アイドル「恋愛禁止」のような抑圧的な風潮と密接な関係にあるのは「アイドルのビジネスモデル」ではないだろうか。
現在は、アイドルグループのメンバーが恋愛どころか結婚しても活動を続けているグループもある。恋愛禁止という抑圧的な風潮が強いグループと恋愛・結婚に寛容なグループの「ビジネスモデルの違い」に対する論考に期待したい。
序章についての考察の段階で長文になってしまったが、本書は「葛藤を緩和する」「葛藤を深める」という両方の作用があるように思う。
各項目で、たくさん考察してみよう。
第1章「絶えざるまなざしの中で」
「アイドルをめぐるメディア環境と日常的営為の意味」について書かれている。
(営為…仕事を行うこと)
乃木坂46の楽曲「僕は僕を好きになる」のMV(ミュージックビデオ)は、今のアイドルを取り巻くメディア環境についての教材のような趣をもっていると提示されている。
「僕は僕を好きになる」MVが映し出す2つの性質
- アイドルはいくつものジャンルではたらく職能であること
- アイドルは私的な領域をも「見られる」こと
「私的な領域をも見られること」から、アイドルがアイドルを「演じ直す」こと、受け手(ファン)の要求を加速させるメディア環境について書かれている。
自ら演者側にも足場を置く戸田真琴は、「プライベートな振る舞いにおいてまで『求められる姿』を演じることをファンが要求するのは業務外の過度な要求で、それ自体がアイドルとファンという関係性を超えた越権行為」と述べつつ、しかし「アイドル文化の経済圏がファンの『好意』を主軸として成り立つ以上、ファンの要求はある種命令に近い強制力をはらんでおり、実際には無視し切ることは難しいのだということは容易に想像できます」と、演者と受け手との間に生じる構造を指摘する。
すなわち、「好意」に基づく関係性は、どこまでが労働によるサービス提供の範疇である、という割り切った態度表明がしづらく、そのために受け手の要求がエスカレートしていくことに対して、明確な拒絶や線引きをしがたい困難がある。
本書より引用
以上のような「越権行為」は、現在のように動画配信サイトがアイドルの標準装備となる前に多く見られた。
とくに、グループや運営が企画・構成していない個人配信の現場では「サービス提供の範疇」があいまいになりがちであり、また受け手の欲望がエスカレートしメンバーの精神を追い込んでいた印象がある。
「受け手自身の振る舞い」が問われる一方で、心苦しいとは思うがメンバーによる「線引き」についての発言は重要であると考える。
『○○は困る』『○○は対処しきれない』と発言すれば、ほとんどのファン(受け手)は納得するであろうし、明確な線引きがあるほうがファンにとっても分かりやすく、ファンダムのチカラでメンバーを守ることも出来るのではないだろうか。
明確な線引きにより離れるファンはそれまでの関係であろうし、「強制的な命令」に従い続けても人の欲望に際限はなく「いつか破綻する」のは目に見えているからである。
わたしは厳しい表現で述べたが本書のなかでは「アイドルからの捉え返し」として、AKB48の柏木由紀を例に優しく丁寧に説明されている。
そして、この章の総括として
戸田真琴は、アダルト業界に演者として身を置きつつ文筆業でも発信を続ける視点から
「資本主義が人間の尊厳を食いつぶそうと牙を剥くとき、なにかを売る側ができることはとても少なく、主体としての買う側の意識が変わらないと世界を大きく変えることは難しい」と実感を込めて述べる。
そして、「消費者が刺激に鈍くなり、より過激なものを求めるほど、つくる側はそれを売ります」
「世界を変えるのは劇的な力を持ったスターではなく、そのスターを眼差すあなたです」
本書より引用
わたしが以前応援していたアイドルグループから離れた理由だ。
『推しメンがいるから、好きな子がいるから』といって盲目的に運営側から販売されるサービスを購入していては何も変わらない。変わらないどころか、そのサービスは益々エスカレートしていき過激なものになっていく…なっていたように思う。
「好きな子、好きなこと」を自ら手放す行為が、メンバーを守ることに繋がるのではないか。しかしながら、そのときのわたしの気持ちが、運営側の人に分かるだろうか…
エンタメは過激になりやすく、消費されやすいように思う。だから、「アート性」が必要なのではないだろうか。
倫理的に『メンバーやファンにとって良くない』と感じたとき、ファンの振る舞いが問われている。
第2章「推すことの倫理を考えるために」
この章では、「推す」ことに関する倫理的問いがもつ論点・分野の広がりを整理すること、「推す」ことの価値や意義、倫理的側面に関する考察について書かれている。
「推す」ことの倫理を考えるための見取り図が面白い
家父長制的性愛規範の保守/資本主義・新自由主義
- 異性愛主義/ルッキズム
- 消費主義
- 感情管理
- SNS
- 身体・パーソナリティの客体化・商品化
家父長制的性愛規範の攪乱
- 非ー対人性愛
- 一方向の思慕の意義
- 恋愛のオルタナティブ(疑似恋愛)
以上の点について、細かく整理され書かれている。
「推す」ことの倫理をめぐる問題をあえて一言で概括するならば、それはSNSに代表される今日のメディア環境を前提にした、私たちの親密性とアイデンティティのあり方に関わる問題といえるだろう。
本書より引用
アイデンティティとは、心理学や社会学において「自分は何者なのか」自分が自分であること、さらにはそうした自分が、他者や社会から認められているという感覚のこと「自己同一性」
ファンやメンバーのアイデンティティを育むために「アイドルグループアイデンティティ」は重要に思う。
グループアイデンティティとは、ある特定の集団に対して個人が抱いている社会的アイデンティティ「自分が、ある社会集団に所属している」という個人の認知とその集団の成員であることに伴う「価値や情緒的意味」
乃木坂46代表の今野氏は「アイドルは総合芸術であるべき」と述べ、坂道系グループの方向性を示して実践されているように感じる。
運営側が明確な方向性を示すことは「ファンの意識や振る舞いを統率する」効果があるのではないだろうか。
個人の振る舞い(事を行う様子・態度。行動や動作のしかた)は「美意識」に左右される。
質の高いアート作品の制作を目標・生産し、アイドルファンに対する「美意識の育成」こそが、アイドルに対する抑圧的な問題からの解放の鍵となるのではないか。
また、美意識による振る舞いは、義務教育における幼少期の「アート教育」の少なさ・貧困格差も関係しており社会問題の側面をはらんでいるように感じる。
「アート作品」の感じ方は自由だ。正解や不正解はない。
あなたが感じたことを大切にしながら、他者の感じ方を吸収し「寛容さ」を育む。
わたしが乃木坂46を好きな理由はそこにある。
第3章「ハロプロが女の人生救うなんてことある?」
モーニング娘。を代表とするハロー!プロジェクト通称「ハロプロ」の歴史・特色について書かれている。
雑誌「ダ・ヴィンチ」で「ハロプロが女の人生を救うのだ!」と題した特集を組んでいたことへの問い返しとそこから女性アイドルの人生、恋愛禁止、グループ卒業により「アイドル」をやめなくてはならないのか?についてまで掘り下げられた内容。
ハロプロの歌詞の語り手である「主人公」は、女性である(と読める)ことが多い。このことを作家の柚木麻子は「つんく♂曲に限らずハロプロは都会の中の少女の孤独、または半径百メートルほどの馴染みの場所の幸福について描き続けてきた」と表現する。
本書より引用
これは知らなかった。
女性主体の「わたし」の物語を歌う姿はフェニミズム的な表象として受け入れやすく女性ファンが多いらしい。
ここで気になったのは「作詞の重要性」「作詞のチカラ」である。
国民的アイドルAKB48グループや坂道系グループの全ての作詞を担当している秋元康の作詞により、「女性アイドル」というイメージが左右されうるのではないか?という疑問を感じた。
また、彼の特徴的である「僕」を一人称とする男性目線の歌詞はずっと気になっていた…というか、しっくりこない時があるのは私だけなのだろうか。
一方で、元NMB48山本彩が作詞する「僕」は心地良い。単純に好きなだけかもしれないが…
指原莉乃がプロデュース・作詞を担当するアイドルグループが人気上昇している。
アイドルグループ曲の「作詞の重要性・チカラ」については、また別の機会に考察してみたいテーマだ。
ハロプロの話に戻そう。
- 現役メンバーにより過去の先輩達の曲が何度もカバーされる、ハロプロの「楽曲群」からあふれる多声性
- 性差別的な「正しくない」音楽の効用
- そのような楽曲で「沸いてしまうけど、後ろめたい」葛藤
以上のようなハロプロ楽曲の考察について書かれており、アイドルたちの「女の人生」について、「恋愛禁止」はどこまでも曖昧という話になる。
どこまでも曖昧な「恋愛禁止」ルールがあるかぎり、アイドルの「人生」はやみくもに傷つけられる。しかもそのことによって規範の存在感は増すばかりで、ブレーキのかけ方は誰にも見えていないようだ。落としどころを見つけられないまま、女性アイドルである人が週刊誌などによってプライベートを明かされ、職を失ったり自ら辞する出来事が続くたび悲しく、居たたまれない気持ちになる。
本書より引用
指原莉乃がプロデュースする「=LOVE」を筆頭とするアイドルグループは、グループ結成記者会見において『恋愛禁止ではない』とプロデューサー自らが明言している。
運営側の責任者が記者会見で明確に『恋愛禁止ではない』と発言することにより、「恋愛ネタで週刊誌に追われること・恋愛発覚し運営側から制裁を加えること」を阻止できるのではないか。
ただ、すでに恋愛がらみのスキャンダルにおいて、運営側が制裁(のようなもの)を与えてしまったグループによる「スキャンダル発覚後の明言」は混乱を招く可能性がある。
AKB48のエース岡田奈々の恋愛スキャンダルが露出したおり本人の口から『AKB48は恋愛禁止ではないとはいえ…』と配信メールで発信された後、総監督の向井地美音により『運営に確認したところ恋愛禁止ではない、恋愛禁止について改めて考え直す時代が来た』などと発信し炎上した。
この炎上のポイントは
- メンバーに発信させているところ
- スキャンダルが露出した後に発信していること
- 過去の処遇・制裁を清算していないこと
- スキャンダル露出したのが人気メンバーだから擁護している(と感じられる)こと「メンバーの不平等性」
「恋愛禁止ルール」のようなものを機能させ抑圧的にしているのはメンバーではなく運営側だ。そして、それを人気商売・話題性に利用したり、時には制裁を与えグループの新陳代謝をはかったりしてきたのではないか。
過去の処遇や制裁を認める部分は認め、メンバーが自発的に行った(恋愛スキャンダルが露出した後に丸坊主など)ことについても精神的に追い込んだ部分があれば『今後は改善する』と運営側の責任者が明言すべきではないだろうか。
その明言は、スキャンダルが露出した後ではなく、指原莉乃のようにグループ結成時が望ましいが、長年にわたり活動してきたグループは「○○期生」が新しく加わるような節目のタイミングでもいいと思う。
岡田奈々のスキャンダルで向井地美音は擁護的な発信をしたが、これが他のメンバーであっても同様であったのだろうか。
(2021年における鈴木優香の恋愛スキャンダルの時はスルーだった)
グループの稼ぎ頭だから擁護する(ようにメンバーを利用する)、経営にマイナスなら擁護しないという「不平等な問題」もはらんでいる。これは、向井地美音に対することではなく「運営側のあり方」の問題である。
「恋愛禁止」の風潮については語りつくせないので、詳しくは別の記事で考えることにする。
本書では、恋愛禁止ルールによる制裁と傷、「卒業」からアイドルの境界を問い直す、さらに、アイドルと私たちの境界を融解する話に進む。
総括として
だからいまは、アイドルである人たちが経験する傷から目をそらさず、そしてアイドルである人たちの口から発される、アイドルと私たちの境界線を融解させるような呼びかけを聞き逃したくないと思っている。
アイドルが「アイドル」である人間として生きているなかで、何を感じ、何を考えているのか。私が応答したいのは、まさにそのような言葉に対してなのだ。
本書より引用
ファンによる「お気持ち表明」や、SNS、本書のような論考でアイドルは多く語られているが、アイドル自身による「お気持ち表明」は誰でも出来ることではない。
ファンを失うことへの葛藤であったり、運営批判すると立場が悪くなる危険性もあるだろう。また、各メンバーの性格が違うように、大人しいタイプのメンバーは尚更声をあげにくい環境にあるのではないだろうか。
わたしは、DDと罵られても(罵られてないけど)色々なグループ・メンバーの声を聞き洩らさないようにしたい。
第4章「コンセプト化したガールクラッシュはガールクラッシュたりえるか?」
K-POPガールズグループの歴史や「どのようなコンセプトでグループが作られたか?」そのグループは「どのようなファン層に支持されているか?」また、日本と韓国の国民性の違いの中での「アイドルの存在」などについて書かれている。
ガールクラッシュとは…「強くてカッコイイ」「自立した」「異性を意識していない」女性アイドルを指す言葉として使われがちで、欧米圏でのK-POP人気の理由とされたり、韓国でのフェニミズムの盛り上がりと紐づけられたりしているらしい。
ところが、である。
その「ガールクラッシュ」がコンセプト化された時、本来の「強くてカッコいい」などの意味が成立するのか?という論考である。
この章は、わたしのモヤモヤを最も払拭してくれた。
K-POPガールズグループが世界的に人気ということで、以前色んなグループをチェックしていたのだけれど、楽曲の詞に重きを置くタイプであるわたしはハマらなかった(と思っていた)。
ダンスやビジュアル、衣装・MVのクオリティーの高さは、日本のアイドルグループも見習うべき要素が多くあるが、何か『ピンとこない』のだ。
その理由は…
K-POP業界でガールズグループのイメージ作りに関わるA&Rなどには女性スタッフも多いものの、最終決定権をもつプロデューサーの多くが男性である以上、ほとんどが「男性が考えた女性ウケしそうなコンセプト」になりがちということにはならないだろうか。
本書より引用
「ガールクラッシュ」がコンセプト化された時、本来の効力は弱まることになり、日本の女性アイドルがいわれる「操り人形」「画一的な女性像を固定する」というようなイメージと、本質的に変わらないのではないか。
一方で…
日本のアイドルグループは楽曲やパフォーマンスのジャンル、メジャーやアンダーといった階層も幅広く、また異性装、セクシャルマイノリティのメンバーで構成されたグループが女性アイドルフェスに呼ばれるなど、この「多様性」は韓国の女性アイドル業界には存在しないものだ。
本書より引用
わたしが日本人であることが理由かもしれないが、日本人の多様性やそれに対する寛容さ、1つの物事を極める姿勢、現状を改善していこうとする真面目さ、勤勉さ、繊細な気配りなどを感じる日本のアイドルグループの方が好きだ。
これは、K-POP女性アイドルグループと日本のアイドルグループの「どちらが優れているか」という論考ではない。
世界進出を無理して目標にする必要はなく、K-POPに追随する必要もなく、良いところは取り入れて、日本アニメと同様にアイドル業界も長年をかけて「熟成」されることを願う。
それこそが本当の意味での「Japaneseアイドル」ではないだろうか。
総括として
女性アイドルと女性ファンの関係性が、例えば政治的な主張のための象徴や記号的なものとして利用されたり、「コンセプト」としてただ単純に消費されるだけのものにならないことを祈っている。
本書より引用
この章は、K-POP女性アイドルについて知りたい人に強くおすすめする。
第5章「キミを見つめる私の性的視線が性的消費だとして」
アイドルに性的なまなざしを注ぐのは「罪ではない」といいながら、うしろめたさを感じる葛藤について書かれている。
この章で語られる、「性的視線」によるまなざしは不快なのか?それは、どのようなシーンなのか?「性的消費」されることについて、どう感じるか?などは、当事者であるアイドルに聞いてみないと分からない。
しかしながら、アイドルに対して『性的視線で見ているよ』と伝える(伝わる)ことが、当事者からすると不愉快なのではないか。
わたしは、アイドルの写真集を初めて購入するとき、かなりためらいがあったし購入したら終わりだ(性的消費に対するためらい)と思っていた。
写真集には、水着や下着姿のカットもある。そう考えると、メンバーに対して気軽に『写真集出してほしい』と伝えるのは、不愉快に感じることがあるのではないか。
アイドル写真集は誰でも出版できるものではない。1流アイドルの記号的な意味合いがあるので、ファンの立場からすると無頓着に褒めているつもりで『写真集出してほしい』と伝えてしまっているのではないか。
他にも、性的視線で見ていると伝わる可能性として『ナイスバディですね』『スタイルいいよね』のような身体についてのコメントも考えられる。
別のケースで、『○○ちゃんの夢を見たよ・夢を見たい』はどうだろう。その夢の中に性的視線はないのか、メンバーによっては『気持ち悪い…泣』と感じるのではないか。
性的消費や妄想は罪ではないのだけれど、「性的視線で見ている」と伝わりうるような言動・コメントには気をつけたいという学びがあった。
本書の内容から話はそれるが、性的視線・性的消費が存在するとして、「小中学生アイドル」は倫理的に良いことなのだろうか。この件については、別の記事で考えたいと思う。
第6章「クィアとアイドル試論」
従来のアイドル論は「疑似恋愛」などをキーワードとし、ファンもアイドルも異性愛者である、ファンはアイドルに恋愛感情を抱いている、この世には2つの性別しかない、といったことが「当たり前」のようにされてきたことに対して、ゲイアイドル「二丁目の魁カミングアウト」の存在による解きほぐしが書かれている。
二丁目の魁カミングアウトとは…2011年に結成された「ゲイでもアイドルになれる」をコンセプトとするアイドルグループで、メンバー全員ゲイであることを明らかにしている。数十曲のオリジナル楽曲をリリースし、「TOKYO IDOL FESTIVAL」や「@JAM EXPO」など数万人規模のアイドルフェスに出演、観客の収容人数が千人単位の会場でワンマンライブを開催する、商業的な成功と知名度を獲得している。
YouTubeでMVを拝見したが、楽曲のクオリティーが高く個人的にはロックのように感じた。
しかし、そもそも歌手としてのアイドルに「疑似恋愛」の要素を設定する必然性はあるのか。
本書より引用
疑似恋愛とは…自分の想像の中で恋愛をすること。自分の想像で恋愛しているため、恋人にする相手やどのような恋愛をするか全て自分の思い通りになる。
恋をしている、ときめきがある暮らしというのは、モノクロだった人生が突然カラーになるような感じではないだろうか。
個人的には、アイドルを応援していてそんな感覚になったことはない。
アイドルは「疑似恋愛」たりえるか?
「疑似恋愛」に近いサービスとして、メンバーによるメールサービスが考えられる。最近では、メールによる文章や画像だけでなく、動画や音声も送ってくれるメッセージアプリもある。
わたしは山本彩のメールサービス(モバイル会員になると付いてる)と乃木坂46のメッセージアプリしか利用していないので分からないが、グループにより「色気を用いて極端にファンを釣る(心をつかむ)行為」は禁止されている印象がある。
また、いわゆるアイドルに内包されがちな「疑似恋愛」に否定的なのか、ただ不器用なのか、本当の意味でファンの幸せを願ってなのかは分からないが、全く釣るような様子がないメンバーも存在する。
では、握手会やオンラインお話会のようなサービスが疑似恋愛なのだろうか。わたしは利用したことがないので分からないが、Twitterのフォロワーさんを見ていても「疑似恋愛」のようには感じない。
しかしながら、個人が一方通行的に恋愛感情を抱くことは知ることができない。
AKB48が誕生し「握手会」がアイドルの標準装備となった、いわゆるアイドル戦国時代の頃は、ライバルが多かったことを理由として「疑似恋愛」的な色合い(メンバーによる釣り行為)が強かった印象がある。
また、メディアによる統計からビジネスにおけるターゲットを絞り、効率的な経営の名残りはあったかもしれない(次の章で書かれている)。
しかしながら、AKB48が結成されたのが2005年、現在は2023年で18年経っている。現在のアイドル業界は飽和状態であり、「疑似恋愛」的な要素で戦える状況ではないように思う。
本書では、アイドルと疑似恋愛の歴史、異性愛主義、恋愛禁止の話に進む。
「恋愛禁止」異性愛以外は容認する?
つまりアイドルの「恋愛禁止」は交際相手の性別や性的指向を問わず、恋愛そのものを遠ざけるべきだとするのではなく、あくまでも基準は異性愛にあり、異性愛以外は容認するというねじれをはらんでいる可能性がある。
そしてそれは、アイドルが異性愛以外のセクシュアリティである可能性に対して無関心であることをも意味する
本書より引用
例えば、推しメンが女性で、わたしが男性(異性愛者)であった場合で、あるタイミングで推しメンが同性愛者だと告白したとしよう。その場合、男性であるわたしを含めファンは「性的対象でない」ことになる。
アイドルの恋愛スキャンダルが報じられたとき、ファンの心が激しく動くのは同性に対する「嫉妬心」からではないか。なので、推しメンが同性愛者であった場合は容認するであろう。
一方で、推しメンを同性愛的なまなざしで応援していた女性ファンは、嫉妬心を抱き苦言を呈するようなコメントをするかもしれない。
ただ、「アイドルが異性愛以外のセクシュアリティである可能性に対して無関心であること」は理解できる。しかしながら、当事者による告白がなければ無関心にならざるを得ないのではないのだろうか?
アイドル「ジェンダーに関する告白」は必要か?
次に、「ジェンダーに対する無関心」の解きほぐしとして、二丁目の魁カミングアウトメンバー白鳥白鳥の活動終了における告白が提示されている。その後、アイドルとジェンダー、セクシュアリティの話に進み
総括として
パフォーマーのジェンダーアイデンティティやセクシャルオリエンテーションに無自覚でいることや、アイドルに対するファンの思慕を何か典型的なタイプに当てはめることは、それぞれの心身への負担にもなる可能性を考えたい。
それは送り手の問題でもあり、受け手の問題でもあり、アイドルに関わる1人ひとりの関心と想像力の問題でもある。
本書より引用
ジェンダーについては当事者の告白(カミングアウト)により、抱いている気持ち・生きづらさが知らされることが多い。
しかしながら、はるな愛はこう述べている。
何なら、無理にカミングアウトしなくてもいいと思っているんですよ。
もちろんカミングアウトすることで生きやすくなるなら、打ち明けたほうがいい。
でも、言うことで誰もが幸せになれるとは限らないので、少しでも「言いたくないな」と感じるのなら、言わなくていい。自分の心が望むほうを選択してほしいです。
第7章「アイドルを解釈するフレームのゆらぎをめぐって」
「アイドル」は単に「有名性を得ているメディア的な形象」という範疇にとどまらず、また一過性のブームや流行現象でもなく、社会のあり方や人とのコミュニケーションを描き出す文化として捉えることができる。
「アイドル」について考えることは、「アイドル」が生きている社会について考えることにつながるのである。
本書より引用
この章では、「アイドル」という言葉が指し示すイメージやファンとの関係性を読み解くうえで、メディア空間と言説によって浮かび上がる「アイドル」のありようを、ジェンダー・セクシュアリティの観点から再考されている。
- 疑似恋愛の対象としての「アイドル」
- メディア空間・言説からみる「アイドル・ファン」の姿
- ジェンダー化の潮流
アイドル誌が1979年から80年代に多く創刊されるのだが、「女子向け」については2022年現在も刊行継続中だが、「男子向け」については「BOMB」を除き1990年代前半に休刊してしまっている。
女性アイドル「冬の時代」である。
「女子向け」のアイドル誌は、恋愛を軸に捉えたファンのためのメディア空間化していき、「男子向け」は性体験や性行為そのものに関心が向けられ、恋愛関係というより女性アイドルの身体に視線が向けられ性的な欲望をかきたてる機能を果たしている。
また、「女子向け」ではメンバー間のホモソーシャリティを浮かび上がらせ、読者がその関係性の連想に興じる空間を作り上げている。
現代では、女性アイドルグループのメンバーが女性向けファッション誌で専属モデルに起用され、表紙を飾る機会も増えている。
「異性」である「男子向け」というジャンルにとどまることなく、「同性」が「憧れ」を抱き、同性の消費を喚起するアイコンとして女性アイドルをまなざすことを促すようなメディア空間が形作られていっている。
本書より引用
乃木坂46を代表するメンバーによって、異性愛規範は解きほぐされているように感じる。
とはいえ、メディアによる発信がアイドル業界のイメージを左右していることを考えると、本書のような論考は重要な存在になるといえる。
第8章「観客は演者のきらめきを生み出す存在たりうるのか」
「少女☆歌劇レヴュースタァライト」を題材とし、「観客は演者に力を与える存在たりえているのか」ということについて検討されている。
- 「少女☆歌劇レヴュースタァライト」における「2.5次元」コンテンツの枠組みの更新
- 舞台少女の「キラめき」を生み出す「燃料」とは何か
- 観客が演者を舞台に立たせるとはどういうことか
- 「舞台少女」と「普通」の「女の子」を執拗に区分することの意味
- 「舞台少女」と「舞台創造科」との共犯関係
この章は、具体例が提示されており、分かりやすく面白いのでご自身で読んでみてほしい。
個人的に感じていた、資本主義と結託した「消費されるアイドルは、応援するファンも消費される」という想いが強くなった。この件については別の記事で考えたい。
第9章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」
「アイドルを観ることは『賭博』のようなものである」という作業仮説の上で論考されている。
- 賭博の美学性・観ることの賭博性
- アイドルの「アマチュア性」がもたらす賭博的緊張
- 「わたしたちと同じ身体」による期待の裏切り
- 「賭ける」ことと「推す」こと
- 賭博的な快の裏に隠されているもの
- 「生身」への欲望を制限すること、またその困難
この章も具体例が提示されており分かりやすい。
とくに、わたしのように「ギャンブルを嗜む方」は深く納得できるのではないだろうか。
賭博の「よさ」「よくなさ」を提示することにより、アイドルを観ることの「よさ」「よくなさ」を否認することなく受け入れる姿勢が必要だと書かれている。これは、非常に大切な視点だ。
何事においても、盲目的に肯定や否定をせず「よさ」と「よくなさ」を理解し、そのうえで振る舞うことは豊かな人生を生きるポイントといえるだろう。
アイドルを「推す」ことが広くポジティブに語られ始めているいま、「アイドルを観る」ことのうちに含まれる危うさ、欲望の取り扱いの難しさについても、あらためて考えていく必要があるように思う。
本書より引用
まとめ
アイドルは、エンタメやアートで楽しませてくれる
ときには、癒しや勇気もくれる存在だ
しかし、アイドルも「生身の人間である」ということは忘れてはならない
ファンの立場としては、葛藤することなく、迷いなく楽しめるのが理想的ではあるが、その影のどこかで、泣いてる誰かはいないだろうか…
いつも笑顔のあの子は、心の底から笑えているのだろうか。嘘でも笑顔でいないと、心がもたないのではないか
受け手として、好きなあの子のために何をしてあげれるだろう
そんなことを、ほんの少しの人が、ほんの少し考えるだけで、世の中は大きく変わるのではないだろうか
アイドル業界の運営、メンバー、ファンが「三方良し」になることを願う